発見!ご当地「油」紀行
第8回 神奈川県(横浜市)キャベツ
開港150年の横浜は「日本初」が勢ぞろい
フライのお供の定番も栽培は横浜が発祥の地
日本を代表する港町といえば横浜です。横浜は2009年で開国・開港150年を迎えました。
4月から9月まで150周年の記念イベントとして「開国博Y150」が催され、連日多くの人々でにぎわいを見せています。
安政6年(1859)の開国当時、横浜は東海道の神奈川宿の外れに位置する一寒村でした。しかしこの地に日本最大の外国人居留地が設けられ多くの外国人が暮らし始めると、外国から多くの文物が押し寄せてきたのです。このため横浜はたくさんの「日本初」をもつことになりました。「開国博Y150」のベイサイドエリアの会場に設けられた「はじまりの森」には「横浜ものがたり」と称するテーマ会場があり、そこで横浜から始まり日本全国へ拡がった洋食、洋装、スポーツ、乗物などが紹介されています。その中の一つがなんとキャベツなのです。トンカツやコロッケ、フライの付け合せに欠かせないキャベツ。
どのような歴史を経て食卓の定番になったのでしょうか。
西洋野菜の栽培は外国人居留地から始まり
やがて横浜郊外へ拡大していきました
横浜の外国人居留地に暮らす欧米系の住民たちにとって、開国当時、祖国で食べていたような野菜を入手することは大変難しいものがありました。個人的なルートで入手した種を自宅の庭に蒔いて栽培したり、インドや上海、遠くはアメリカから運ばせたりしていたといいます。当然輸送には時間がかかり、その品質はとても「新鮮」と呼べるものではありませんでした。
こうした中、開港元年である安政6年に任命されたイギリスの初代駐日総領事オールコックは、赴任後間もなく野菜の種子を入手しました。そしてローレイロという人が外国人居留地に菜園を作り、西洋野菜の栽培を始めたのです。キャベツ、パセリ、レタスなどがそのころの品目です。西洋野菜の栽培がなんとか定着すると横浜郊外の日本人にも西洋野菜の作り方を学ぶ人が現れます。清水辰五郎、近藤伊勢松は根岸や磯子に、堤春吉は子安などで栽培を始めました。これらの地域は当時人がほとんど住んでいないのどかな山村だったといいます。明治期には栽培の規模が拡大していきましたが、現在、湾岸部は埋め立てられて工業地帯に、内陸部は閑静な住宅地に変貌してしまいました。
キャベツが広まったのはポークカツレツの付け合わせから
そしてせん切りキャベツは日本独自の文化になった
幕末から始まった横浜でのキャベツ栽培。明治の中ごろまでは外国人居留地に滞在していた外国人や船舶関係者向けにわずかな量を生産していました。
当時西欧料理においてキャベツはスープや煮物など熱を加えて食べることが主流でした。
しかし明治37年(1904)、ポークカツレツの付け合わせに生のキャベツが添えられてから、その食べ方は一変します。東京・銀座の老舗洋食店では当時フランス料理として仔牛のカットレットというメニューを提供していました。この料理をくどい味を好まない日本人の好みに合わせて変えたのです。
まず素材を仔牛から豚肉に、そして少ない油で焼きつけるようにソテーしていた調理法を、生パン粉をつけ天ぷらのようにたっぷりの油で揚げました。これをポークカツレツというメニューにして提供を始めました。付け合わせは従来通り温野菜(ニンジンのグラッセ・オニオンソテー・フライドポテトなど)を添えていたのですが、日露戦争(明治37-38年)で人手不足となり、窮余の一策としてキャベツを生のままで提供しました。そうしたところこれが大好評となり、“付け合わせに生のキャベツ”が定着し、庶民の間でも食べ始められるようになったのです。当初は切り方も粗かったのですが、客の好みに合わせ現在のような細いせん切りになっていったとのことです。
「機械を使わず手切りでせん切りに刻むのは当時と変わりません。せん切りにした後のキャベツは水で洗う程度で、長時間水にさらさないのが柔らかな食感にするためのコツ」と老舗洋食店の3代目店主。西欧において加熱して食べるのが主流だったキャベツが、野菜の生食文化がなかった日本において、生で食べ始められるようになったのは興味深いことです。また同じころ彩りとしてパセリを添えるようになったそうですが、これは和食の刺身のつまがヒントだったといいます。ちなみにこのパセリの栽培も横浜が始まりでした。
現在家庭料理の定番となっているトンカツはポークカツレツから派生したもの。また、トンカツの付け合せのキャベツのせん切りもパセリのあしらいも日本で生まれた食文化であり、日本で初めて横浜で栽培された野菜を使用したものなのでした。
(09.8.7)